西郷南洲翁と故稲盛和夫氏
はじめに
2022年8月にお亡くなりになった故稲盛和夫氏は2007年9月に奄美大島の龍郷町での【西郷隆盛生誕180周年・没130年記念講演】で「人生について思うこと-心に美しい花を咲かせよう-」と題してお話をされています。
きっかけ
講演冒頭で稲盛さんは今回の講演会について「松下政経塾の研究生でいらっしゃいます、安田壮平さんから要請を重ねていただき、断りもできず、今ここに立っておりますが、何を皆さんにお話しすればいいのだろうかと悩んでまいりました。」と切り出しました。
3つの管理の必要性
講演に入り、稲盛氏は、人間が生きていく上で「健康管理」「知的管理」「心の管理」の三つが必要で、なかでも特に「心の管理」が重要であるとしています。
講演集から私の印象に残ったところや共感・共鳴した個所を引用し編集してみました。
心を管理する
このことは、「人間にとって最も大事だが、多くの人がそのことにあまり関心を払っていないように見受けられる。」と稲盛氏は切り出し、これを疎かにしていると心労を患うことが多くなり、悩みや心配事、不平不満を心のなかに持ち、苦しんだり、イライラしたりすると言っています。
また、競争が激しい現代社会では心のなかに妬みや恨みが生じやすくなり、胃潰瘍をはじめ、高血圧症、心筋梗塞や不平不満、怒り、妬みなどが高じていけば、うつ病などの精神病に陥る可能性もあると言っています。
「真我」と「自我」
稲盛氏は「自我」とは本能に基づくもので、自分だけよければよいという「利己の心」であり、一方、「真我」とは逆に人を助けてあげようという「利他の心」があると言っています。
そして、人を慈しみ助けてあげようという利他の心と、自分だけよければいいという利己の心がひとりの人間のなかに同居しており、この「真我」と「自我」の二つが葛藤しているのが人間の心であると講演の中でおっしゃっています。
心を鍛錬する
さらに、我々は「自我」があるからこそ生きていくことができます。ピュアで美しい「真我」だけでは人間は生きていくことはできないとも言っています。
また、名誉欲や権勢欲、さらには恨みつらみなど、心のなかを占める低次元の「自我」がその人の生きるエネルギーや活力となっており、生きる上で必要であるとも言っています。
従って、心のなかに占める真我の部分を大きくしていくには、自我を抑えていくしか無いと結んでいます。
心の状態で判断の結果が異なる
このように、利他の心をベースに判断したときには物事の核心がみえ、間違うことは少なくなり、一方、利己では、判断が曇ったり歪なものになってしまうと戒めています。
稲盛氏の経営哲学や人生の生き様のベースとなっているのは正に利他の心であり、その原点は南洲翁遺訓集で、それにより「心の律し方」を学んだと言われています。
この『南洲翁遺訓集』は幕末の戊辰戦争で幕府側についた、いわば敵方の庄内藩の有志の手によってまとめられたものだそうです。
西郷の薫陶を受けた庄内藩の人たちが、学び取った西郷の教えを編纂し、後世に残してくれたのが『南洲翁遺訓』だそうです。
その中で私なりに大事に思い、また、現代社会での必要なものを抜粋します。
【遺訓 5 条】志を堅固に
(原文)或る時「幾歴辛酸志始堅 丈夫玉砕愧甎全 一家遺事人知否 不為児孫買美田」との七絶を示されて、若しこの言に違いなば、西郷は言行反したるとて見限られよと申されける。
(訳) 人の志というものは幾度も幾度も辛いことや苦しい目に遭って後初めて固く定まるものであり、真の男子たる者は玉となって砕けることを本懐とし、志を曲げて瓦となっていたずらに生き長らえることを恥とする。
それについて自分がわが家に残しおくべき訓としていることがあるが、世間の人はそれを知っているであろうか。
それは子孫のために良い田を買わない、すなわち財産をのこさないということだ
西郷翁は奄美の龍郷・徳之島・沖永良部への潜居や流刑といった一連の過酷な試練と先人の教えによって何事にも揺らぐことのない堅い信念を持つ人間に成長していったと考えられます。
稲盛氏は1984年4月私財を投じて財団を設立し、科学や文明の発展、また人類の精神的深化・高揚に向けての創造的な活動に対する顕彰、助成を始めています。
また、母校鹿児島大学には稲盛会館の寄贈、稲盛アカデミー設立の支援、稲盛奨学基金の創設の他私財の京セラ株100万株を寄付するなど、まさに「不為児孫買美田(子孫のために良い田を買わない、すなわち財産をのこさない)」を実践しています。
さらに、九州大学や京都大学にも稲盛財団記念館を寄贈しています。
【遺訓 22 条】克己の修行
己れに克つに、事々物々時に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。兼て気象を以て克ち居れよと也。
(訳) 己れにうち克つに、すべての事を、その時その場のいわゆる場あたりに克とうとするから、なかなかうまくいかぬのである。かねて精神を奮い起こして自分に克つ修業をしていなくてはいけない。
【遺訓 25 条】道理に照らして考える
人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。
(訳) 人を相手にしないで常に天を相手にするよう心がけよ。天を相手にして自分の誠を尽くし、決して人の非を咎めるようなことをせず、自分の真心の足らないことを反省せよ。
人を相手にせず、自分の心のなかにある誠、自分の心のなかにある真っ直ぐな心、すなわ ち正道をもって対すべきだという意味で、敬天愛人の基礎となった文面である。
【遺訓 26 条】無私の精神
己れを愛するは善からぬことの第一也。修業の出来ぬも、事の成らぬも、過ちを改むることの出来ぬも、功に伐り驕謾の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己れを愛せぬもの也。
(訳) 自分を愛すること、すなわち自分さえよければ人はどうでもいいというような心は最もよくないことである。
修業のできないのも、事業の成功しないのも、過ちを改めることのできないのも、自分の功績を誇り高ぶるのも皆、自分を愛することから生ずることであり、決してそういう利己的なことをしてはならない。
西郷南洲は、「己れを愛するは善からぬことの第一也」というように、その生涯を通じて 「無私」ということ、つまり自分を無くすことを説き続けました。
また、ものごとがうまくいかないのはすべて、「自分が自分が」という利己的な心、いわば自己愛が災いしているのだといい続けました。
広く優しい、天と同じような心をもって生きなさい、そうすれば必ずそれはあなたにも 返ってくると、西郷は「敬天愛人」という言葉を通じて説くのです。
【遺訓 30 条】利他の人をリーダーに
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る 人ならでは、艱難(苦しみ)を共にして国家の大業は成し得られぬなり。
(訳) 命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬというような人は処理に困るものである。このような手に負えない大人物でなければ、困難を一緒に分かち合い、国家の大きな仕事を大成することはできない。
西郷翁自身、命もいらず名もいらず、官位も金もいらない無私の人、つまり「自己愛」を離れた人でした。欲があれば、お金をあげよう、地位をあげよう、名誉をあげようといえば簡単にその人を動かせますが、欲がなく損得で動かない人間はいかにも扱いにくく、始末に困るものです。
では、そのように欲で動かない人は何で動くのかといえば、世のため人のため、あるいは他によかれかしという利他の心、つまり高次元の「真我」で動くのです。
そういう人でなければ、困難をともに克服して、国家の大業をなしえることはできないの だと西郷はいっているわけです。
稲盛氏はこれらの実践のために、1984年4月「人のため、世のために役立つことをなすことが、人間として最高の行為である」という理念に基づき、稲盛財団を創設し、科学や文明の発展、また人類の精神的深化・高揚に向けての創造的な活動に対する顕彰、助成を始めています。
エピローグ
このページは未完成であり、今後、延々と修正・加筆を繰り返しながら進化・更新させていくことで、故稲盛和夫氏に捧げる私からのお礼とし、私自身のバイブルとします。
(2022年11月28日)前田浩規 資料:西郷南洲顕彰館)
資料:「西郷隆盛生誕180周年・没130年記念講演」冊子より一部抜粋・引用、西郷南洲遺訓集、京セラホームぺージ、西郷南洲顕彰館 他)