西郷南洲翁と沖永良部島
【西郷隆盛翁沖永良部上陸】
1862年8月14日に徳之島から船牢で護送された西郷翁は沖永良部島西岸の伊延港に到着したが、代官所敷地内に牢獄ができてなかったため、2日間船牢の中で過ごした。
上陸地には、記念碑が建てられ、碑の周囲にはアダンの実が真っ赤に熟れていて、いかにも奄美諸島の島らしい雰囲気を醸し出しています。
【牢獄】
牢獄が完成し、代官・黒葛原源助は付役の福山清蔵、間切横目の土持政照を連れて西郷翁を出迎え乗ってもらおうと馬をひいてきた。
しかし、翁は『いや私は牢に入る身、もう二度と土を踏むことがないと思うのでどうか和泊まで歩かせてください。』と言って牢のある和泊まで一里(4キロ)を歩いたという。
和泊に着くと、酒肴の準備がしてあったが、西郷翁はそれを固辞し、自ら牢屋に入り、牢番に『錠はおろしたか』といわれたそうです。
牢獄の広さは2坪余、にわか造りの建物であり、戸も壁もなく四寸角の格子でうちめぐらしてあるのみだったことから西郷翁は健康を害し、衰えは日に増して目立っていった。
これではとても健康は保たれないと思った土持は、代官に相談して私費を投じて牢獄を新築した。その間の翁は土持宅に預けられ起臥してもらうことも許された。
西郷翁が沖永良部島で過ごした日々は1862年8月から1864年2月までの1年6ヵ月あまり。過酷な牢生活による極限状態を経て「敬天愛人」の思想に至ったとされています。
西郷翁は滞在中、島民たちに世話になったお返しとして、島の若者に聖賢の道について教えたり、飢餓の時のために、豊作時に穀物を高倉に保存しておき、凶作時に皆に支給する「社倉法」なども伝授し、島民の尊敬を集めたと言いいます。
沖永良部島で西郷が未だに尊敬されているのは、この島民との暖かい交流が要因だそうです。
過酷な牢生活を送った西郷翁を元治元年、吉井友実・西郷従道・福山清蔵が藩の外車蒸気船・胡蝶丸で迎えに来た。
2月22日に沖永良部島を出帆した船は途中で大島に寄港し、愛加那を訪ねて4日滞在した後、喜界島へ向かい村田を迎えに寄って帰藩した。
【敬天愛人】
西郷隆盛翁は沖永良部島へ流罪となり、1年6ヶ月過酷な牢屋生活を送った。その間、現地の蔵書や持参した書籍で学問に励み、精神を練磨して天地自然の理を悟り、敬天愛人の大思想を完成させたと言われている。
【故稲盛和夫氏】
京セラの稲盛和夫名誉会長は京セラを一代で世界的な企業に成長させ、経営破綻した日本航空の会長として再建に尽力したが2022年9月24日京都市内の自宅で老衰のためお亡くなりになりました。90歳でした。
稲盛氏が好きだったということばが「敬天愛人」です。
「天を敬い、人を愛す」という意味のこのことばは、鹿児島の西郷隆盛翁がよく使っていたとの事です。
資金も実績もない町工場でもみずからの技術と仲間を信じれば道がひらけるという稲盛氏の経験から私利私欲のためでなく、一緒に働く仲間を信じることの大切さを説いていて京セラの社是にもなっています。
おそらく西郷翁は、牢獄での生活ですら天から与えられた試練として受け取ったのではないでしょうか。
天命という考え方を、牢獄の中で過ごした静かな時間に悟ったのでしょう。
【西郷隆文さん】
日本の陶芸家で日置南洲窯代表。鹿児島県陶業協同組合、及び鹿児島県薩摩焼協同組合・初代理事長。特定非営利活動法人西郷隆盛公奉賛会理事長。維新の三傑の一人・西郷隆盛の曾孫にあたる。2011年度・現代の名工、及び2012年度・黄綬褒章受賞。(Wikipediaから引用)
沖永良部島の西郷記念館にある西郷翁の胸像は直系の隆文氏の作品で、その風貌は隆文氏とうりふたつである。
【菊池源吾に学ぶ会】
熊本県菊池市の菊池源吾(西郷隆盛)に学ぶ会」(園木洋二会長)は今年で発足16年目を迎えています。
会では勉強会を開き西郷翁の人物像を語り合い、自己研さんを積んできました。
【隆文氏菊池源吾と愛加那を語る】
2008年、奄美西郷の長男で後の京都市長を務めた菊次郎氏の曾孫にあたる西郷隆文氏は、菊池市での講演で「隆盛は奄美大島に渡った際に菊池源吾と名乗り、愛加那さんと出会って結婚生活を送った。」
「その3年間が隆盛が人として最も充実し幸せな一時だったのではないだろうか」と幕末の激動の中での、つかの間の幸せを送った西郷隆盛の人となりを語りました。
つづく