新しい国づくりに大きく貢献した西郷隆盛翁

【西郷南洲翁のその後】

これまでは西郷翁が奄美大島の龍郷徳之島沖永良部の島々への潜居や遠島の状況を郷土史家の話や出版物で整理しました。
最終稿は翁が再び表舞台に復帰し、明治維新の実現やその後始末としての「西南戦争」で自害するまでを小学館の「hagukum」から引用し整理しました。

【西郷隆盛翁の生涯】

西郷翁は、薩摩藩の鹿児島城下の町で貧しい下級武士の長男として生まれました。西郷家は祖父母や兄弟、使用人など10人以上が暮らす大所帯で生活は苦しかったようです。

18歳になった西郷翁は、農村の実情を調査する役所に勤め、そこで藩の農政に疑問を持ち改革を求める意見書を何度も提出し、この提案が、藩主・島津斉彬の目に留まり、側近として抜擢されています。

【幕末~明治時代初期】

異例の出世を果たした西郷翁は、島津斉彬公の手足となり、江戸で「尊王攘夷運動」に奔走しましたが「安政の大獄」で幕府の反感をかい、一時身を隠すために龍郷町へ潜居しました。

しかし、斉彬公は突然亡くなり(1858)、新藩主の実父で、事実上の最高権力者・島津久光公とそりが合わなかった西郷翁は、徳之島・沖永良部に島流しにされ不遇の時代を過ごしました。

龍郷・徳之島・沖永良部に潜居・島流され後に藩政に復帰した西郷翁は大久保利通公とともに薩摩藩の代表として京都で倒幕運動を展開しました。

特に、仲の悪かった長州藩と「薩長同盟」を結び、倒幕に大きく貢献したことは有名です。

1867(慶応3)年に明治政府が発足すると新政府軍と旧幕府軍との間で「戊辰戦争」が始まります。西郷翁は新政府軍の大将として戦い、ついには江戸を総攻撃するところまで進みました。

しかし、直前に、徳川家代表の勝海舟との会談に応じ、総攻撃を取りやめます。 西郷翁の決断によって、多くの江戸市民の命が失われずに済んだのです。

西南戦争の敗北】

戊辰戦争後の西郷翁は明治政府の要職を務め、廃藩置県や学校制度の整備、徴兵制の導入など様々な改革を実行しました。

しかし、朝鮮への派兵をめぐる政争(征韓論)に敗れ、鹿児島に戻ってしまいます。

鹿児島では「私学校」を創設して、士族(元武士)の子弟に軍事などを教えて過ごしました。

このころ、明治政府の政策に不満をつのらせた士族が、佐賀の乱・秋月の乱など各地で反乱を起こす中で西郷翁の生徒たちの間にも反乱の機運が日に日に高まっていきました。

武士の世は、とうに終わったことを誰よりも知っていた西郷翁ですが、不平士族の暴走を抑えきれず、政府軍と戦うことを決意します。

【和田越えの戦い】

最後の激戦と言われた「和田越えの戦い」は次のように記されています。
熊本城攻略も失敗し田原坂の戦いのあと、幾多の戦いにも敗れ、薩軍は延岡方面に集まります。

明治10年8月2日、現在の宮崎県高鍋にて敗れた薩軍本隊は、本営を延岡に移したので同年8月12日、山縣有朋中将が総指揮を取る政府軍は3万の大軍にて延岡攻略を開始します。

これに対して薩軍は、北川と延岡の間にある北川沿いの「和田峠」近くに展開し、政府軍を迎え撃つ作戦を取ります。

西郷隆盛翁は政府軍との最後の戦いになると考え薩軍の総指揮を執りました。翁が直接指揮するのは熊本城攻撃以来のことです。

8月15日、薩軍は高所からの有利な砲撃を行いましたが政府軍は山麓から砲撃し軍備で劣っている薩軍は苦戦を強いられ、薩軍の全部隊に総撤退する命令が下され、和田峠は政府軍に占拠される結果となりました。

和田越え決戦の碑

8月16日、西郷隆盛翁はついに薩軍解散の命を出し、陸軍大将の軍服を焼き従僕・永田熊吉に足を切断する大怪我を負っていた長男・西郷菊次郎公を託しました。

菊次郎養生の宿

西郷軍は完全に包囲される中、可愛岳(えのだけ)から高千穂へと敵中突破し山中を約10日間掛けて鹿児島へ向け南進し9月1日には、官軍の鹿児島守備隊を撃破して城山に篭りました。

「西南戦争」と呼ばれるこの戦いは、政府軍の圧勝に終わり西郷翁はたてこもっていた鹿児島の城山で自刃し、武士らしく生涯を終えました。

西南戦争は不平士族による最後の反乱です。西郷翁は自分が武士としての意地を通すことで不平士族たちにこれ以上の抵抗をしないように伝えたかったのかもしれません。

【新しい国づくりに大きく貢献】

西郷隆盛翁は約260年続いた徳川幕府を倒し明治政府の成立に貢献した人物の一人で、大久保利通・木戸孝充とともに「維新の三傑」と呼ばれています。

翁は先進的な考え方を持ち、日本の近代化を進めた一方で、自分がつくり上げた明治政府と戦って散った劇的な生き様でした。

目上の人にも遠慮なく意見できる大胆さと「敬天愛人」を地で行く優しさを兼ね備え、日本をよい国にするために人生を捧げました。

西郷翁が沖永良部島で過ごした日々は1862年8月から1864年2月までの1年6ヵ月あまりで過酷な牢生活による極限状態を経て「敬天愛人」の思想に至ったとされています。

おそらく西郷翁は、牢獄での生活ですら天から与えられた試練として受け取ったのではないでしょうか。天命という考え方を、牢獄の中で過ごした静かな時間に悟ったのでしょう。

西郷翁の死後、明治政府は、ますます近代化を推し進め、短期間で西欧諸国に追いつくほどの発展を遂げます。新しい国づくりの基礎をつくったのが西郷翁でした。

おわり

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