西郷南洲翁と徳之島

このBlogは、天城町「ユイの館」制作の『西郷南洲翁遠島155周年記念誌』から引用・抜粋しています。ご了承ください。

【遠島に至った経緯】
1862年2月、龍郷から呼び戻され西郷翁は、主君島津久光公の公武合体の先導役としての役目を一度は断ったものの大久保利通たちの強い説得で止む無く引き受けた。

遠島に至った経緯(遠島155周年記念誌から引用)
遠島に至った経緯(遠島155周年記念誌から引用)

しかし、血気にはやる尊王攘夷派の行動に危機感を抱き、久光公の命令を無視し行動したため逆鱗に触れ、罪人として徳之島へ遠島された。

【徳之島までの遠島経路と暮らし】
1862年6月に鹿児島を出た西郷翁は同年7月に徳之島の湾仁屋へ到着した。
上陸地には後の天城町長神田善一郎氏揮毫による記念碑が建立されている。

西郷何勝翁上陸の地記念碑

西郷公園
その後、1994年当時の寿洋一郎町長により「西郷公園」が整備され、顕彰碑や関係者の資料等が展示されている。

顕彰碑

西郷ロード
そして、2020年には「西郷ロード」が整備され、西郷翁の上陸地点の湾仁屋から岡前の住まい跡や西郷公園までのルート整備と標識のが設置された。

西郷ロード

このように、徳之島でも少しづつではあるがハード・ソフトの整備が進み偉大な西郷翁の功績を讃える取り組みが進んでいる。

身長約179cm、体重109㎏の大男の遠島人を一目見ようと村中の人が集まったと言われ、村人の家を間借りした自炊生活は質素なものであったが地元の世話役(琉仲祐)の好意で、不自由なく過ごした。

徳之島までの遠島経路(遠島155周年記念誌から引用)
徳之島までの遠島経路(遠島155周年記念誌から引用)
徳之島の暮らし(遠島155周年記念誌から引用)

また、徳之島では色々な人たちと出会い、遊び、学び、教えていく中で西郷翁の偉大さを村人たちは感じていったと言う。

(遠島155周年記念誌から引用)

【愛カナ親子来る】
8月27日、龍郷の愛カナは7月に生まれた長女の菊草と2才の菊次郎を連れ、徳之島で久しぶりの再会を果たした。

愛カナ親子来る(遠島155周年記念誌から引用)

一晩の再会は村人たちに歓迎され、酒宴となったが、菊次郎は人見知りが激しく、西郷には懐かなかったという。 しかし、再会空しくその日が沖永良部島へ遠島命令が下された時だったから皮肉なものである。

【沖永良部島へ遠島】
君主久光公は「徳之島への差遣」処分の軽さに激怒し、沖永良部島への再遠島と牢屋に入れるように命じた。

沖永良部島へ遠島(遠島155周年記念誌から引用)
沖永良部島へ遠島(遠島155周年記念誌から引用)

1862年8月14日に徳之島の井ノ川港から船牢に入れられ旅立った西郷翁はその日の夕方に沖永良部島に到着した。

船中、同行の役人から敬意を以ての対応を受けたが、「君命に背くことは出来ない」と船牢から一歩も出なかったという。ここに、西郷翁の律儀な姿勢が窺がえる。

徳之島滞在は71日間、その間、島人たちとの交流や愛カナ一家との再会、沖永良部島への再遠島と慌ただしい時間を過ごしたものでした。

(遠島155周年記念誌から引用)

【西郷翁の罪】
主君島津久光公の命に「藩主でもない無位無官の自分が朝廷と交渉することは前代未聞で、しかも、世間知らずの久光公が幕府と交渉しても改革の見込みは無い」と一度は断ったものの大久保利通たちの説得を受入れた。

しかし、血気にはやる尊王攘夷派の行動に危機感を抱き、主君を暴挙に巻き込ませないために情報収集の為に一足先に上洛したことが理解されなかった。

このように大局観に基づく行動が受け入れられなかったことでの罪状で沖永良部島へ流刑されたことは、後の江戸城無血開城や薩長連合の構築など明治維新に大きく寄与した。

(遠島155周年記念誌から引用)

次回へつづく

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