ベトナム紀行(5)
【フレドリック氏】
ベトナム最終日はビンズン省でバニラ苗を栽培しているフランス人のフレドリック氏を訪ねた。
同行者のおぼろげな記憶を頼りにようやくたどり着いた自宅は日本で言う新興住宅地の洒落たベトナム風の建物で、ベトナム人の奥さんと可愛い娘さんに出向かえてもらった。
栽培した苗はお隣のカンボジアや海外、そして日本にも輸出しているとの事。 栽培のイニシアルコストはビニールハウス等の設備で1,000㎡当たり、200万円程度という。
また、栽培に関するコンサルティングは年5~6回程度で、料金は発注50%、出荷前50%で、収穫は200㎏/年・1,000㎡で600万円の売上が見込めるとの事でした。
更には、苗を植えて収穫までには2年半から3年かかり、生育は8年がピークである。 このように、和気あいあいにヒアリングが進みました。
コーヒーとバタフライピーテイを美味しくいただき、ここでもベトナム特有の淹れ方と美味しい味に感激した。
【ベトナムの昼食】
ベトナム最後の昼食はホーチミン市の日本食レストランでした。
多くのベトナムの人たちで賑わい、日本食の素晴らしさをここでも実感した。
「失われた30年」と言われ、停滞する日本経済の中で日本の成熟した食文化がここベトナムで受け入れられ花開いている姿に感動したひと時でした。
「捨てたものじゃない日本!頑張ろう日本‼」
【戦争記念館】
ベトナム最終日にようやく観光することができました。
ベトナムに行った人たちが必ず立ち寄る場所がベトナム・ホーチミン市の中心地にある「戦争証跡博物館」で、1975年9月4日に開館とのこと。
ここは、ベトナム戦争の悲惨さを後世に伝えるための博物館で、戦争の始まりから経緯、使われた枯れ葉剤によるあまりにもひどい影響等を、生々しい写真で見ることができます。
ベトナム戦争は南ベトナムにはアメリカが、北ベトナムにはソビエトが支援し、さらにはそれぞれの陣営に諸外国が加わり参戦したものです。
戦争の勃発は1954年に南北が分断し、1975年まで続き、元々はベトナム対フランス、その後はベトナムの内戦に近い状態の戦争にアメリカは一定の思惑で徐々に兵力を増していきました。
やがて国内の反戦運動もあり撤退したアメリカ。結果としてアメリカの敗戦と言えます。
戦争犠牲者は南北合わせて約146万人、行方不明者は約209万人、そして民間人の死亡者は約458万人と言われています。
ベトナム全土に戦火が広がったことにより、一般の女性子供を含めた多くの犠牲が出たのですが、ケガや虐待、拷問の数は一切不明との事です。
当時、私の記憶には連日NHKニュースで流れる「ホーチミンルート・北爆・ベトコンゲリラ」があるだけで、幼心に戦争は他所事であった。
しかし、ロシアのウクライナ侵攻や中国の台湾進攻の現実味を帯びた今日、「歴史は繰り返す」の言葉が示すとおり、人間の愚かさを目の当たりした二度目の訪問でした。
【帰途に就く】
日にちが開け、7月30日現地時間零時5分の成田行きベトナム航空N300の搭乗するために深夜のベトナム空港に到着した。
空港内はおびただしい人・人・人で熱気と活気に満ち溢れ、とてもコロナ禍の国際空港とは思えない状況でした。
出国の手続きもスムースで私たちは一路成田に向け出発した。
朝、8時に無事成田に到着し日本国のコロナ水際作戦を無事、スムースに通過し、入国することが出来、安堵した。
つづく