「死は存在しない」 最先端量子科学が示す新たな仮説
「死後、我々はどうなるのか」
65を過ぎた私の率直な疑問であり、願いである。終活を迎える中、悶々としているときにとてつもない書籍に出会った。
「死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説」(光文社) 工学博士であり最先端量子科学を研究する世界的な科学者の田坂広志氏が唱える仮説である。
一気に読み終え、ストーンと腑に落ち、心の痞(つかえ)えが取れた感を覚えた。 138億年の宇宙の営みから生まれた人間世界の時間軸はほんの一瞬の出来事であり、そこに生きる我々の人生は一瞬の瞬きである。
宇宙の誕生からの人類の僅かな時間の全ての営みを「ゼロ・ポイント・フィールド(仮設)」は記録し記憶に残していると言う。 このゼロ・ポイント・フィールド仮説を筆者は次のように定義している。
この宇宙に普遍的に存在する「量子真空」の中に「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれる場があり、この場に、この宇宙の全ての出来事の全ての情報が「記録」されていると言う。
我々の人生で起こった、全ての「出来事」、我々の人生で与えられた、全ての「体験」、我々の人生で与えられた全ての「人間関係」我々の人生で味わった、全ての「感情」や「想念」、 我々が人生で学んだ、全ての「知識」や「叡智」の情報が
我々の時間軸や物量軸から考えるととてつもない膨大なデータは大宇宙のそれから考えるとわずかなものでしかなく、人類の生い立ちから今日までは一瞬であり、今日、そして、未来までの全てのデータが存在するという。
その中で、人間は死と言う現実を迎え、魂と肉体が分離し、魂は「ゼロ・ポイント・フィールド」に帰還するという。 即ち、肉体の死後、我々の意識はその中心をゼロ・ポイント・フィールド内の「深層自己」に写し、生き続けていくと言う。
私の故郷の奄美大島徳之島の死生観に「現世は借り物であり、仮の住まいである。いつかは、返して祖霊の地に戻っていかなければならない。それが、死である」とある。
科学の領域である「ゼロ・ポイント・フィールド」は正に祖霊の地であり、現生は一瞬の瞬きであり、借り物であり、仮の住まいである。ここに原始宗教と科学が一致・融合した場面でもある。
故石原慎太郎氏の著書「老いてこそ生き甲斐」では、死は人間にとって最後の未知で最後の未来であり、意識の消滅で虚無であるとしている。
ゆえに、人間が喜んだり愛したり恐れたり怒ったりするのは全部、意識の産物で意識がなくなってしまったら、自分がどこにいるのかさえもわからない。死んだら何もない、だから「虚無は実在する」と(著書から抜粋編集)
著書では意識の世界の五つの階層として、第1 表面意識―自我、第2 静寂意識―賢我、第3 無意識―無我、第4 超個的無意識―超我 第5 超時空的無意識―真我と
従って、石原氏が説く「虚無」は自我が消え、第2から第5までの境地に至り、永遠に「虚無」として「ゼロ・ポイント・フィールド」に記録され、生き続けるのである。
それにしても、とてつもない仮説である。今まで悶々とした思考回路がすっきりとなり、明日を生きる元気に繋がったことは確かであり、喜びである。
心の奥深く抱く「恐怖」はそれを実現する「祷り」になってしまう。このことだけはしっかり心に刻みこれからの人生を生きていきたい。